南相馬市と磐梯の避難所に支援物資を届ける 2011年4-5月

2011年4月から5月にかけて、福島県の南相馬市と磐梯の避難所へ支援物資を届ける活動に参加した。

南相馬市原町区の津波被災地で 青旗は「捜索終了」の印として、集めた瓦礫の山に立てられたもの。 

 東日本大震災と福島第一原発の事故の後、東日本大震災緊急支援市民会議(*)から「福島の被災地に支援物資を届けるので、参加者募集」との案内がきた。
 すぐ応募し、4月30日から5月2日まで東北支援活動に参加した。
 もう5年も前のことなのであらためて調べると、この時期は事故発生直後のパニック状態からは脱していたものの、いまだ原発事故の収束には程遠く、放射能汚染への不安が国民の間に広がっていた時期だった。余震もまだ頻繁に発生していた。
 東京では計画停電は3月に終わっていたが、ヨーグルトや納豆などの日用品の供給はまだ正常化していない。企業の生産活動が正常に復するまでにはさらに数ヶ月かかったと記憶する。

 支援物資は生協のパルシステムの提供で、「もうすぐ廃車する(**)」という1.5トン車−ロシナンテ号−で出発した。支援隊のメンバーは総勢3人。いずれも私とは初対面だった。
 この日は東北自動車道を北上して福島西インターチェンジで降り、東行して相馬市に至り、南下して南相馬市の社会福祉協議会の支援物資集積所に着いた。すでに夕闇が迫っており、荷卸後は市内の旅館に泊った。
 翌日は、原町区の津波被災地を回った後、福島市に戻って「子供たちを放射能から守るための集会」に参加。
 その後、避難所となっている磐梯町のリゾートイン磐梯へ向かう。
 避難所ではニーズの高かったネット検索用のPCを設置し、一泊した。食事時には、被災者から事故後のことなどをうかがうことができた。

* 市民会議の支援行動
市民会議は、3月26日の第1回以来、私の参加した第6回を含めて、2013年4月20〜22日の第26回まで、3回の「番外」を含めて計29回支援行動を実施している。
また、その後も別組織の形で支援を継続している。
** ロシナンテ号
結局、このトラックは、その後1年半以上にわたって活躍したことになる。

2011-04-30〜05-02 支援活動概観

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にぎやかにペイントされた支援車両。
霊山パーキング
国道115号線霊山パーキングでは、往路で最大の放射線量を観測した。
南相馬市 支援物資集積所
夜闇が迫る頃、南相馬市社会福祉協議会の支援物資集積所に着く。
南相馬市原町区 津波の被害
原町区の水田地帯では、鉄塔がひしゃげていた。鯉幟が「負けないぞ」という人々の不屈の意志を伝える。
原町区 海岸の惨状
海岸は、引き波で2m近く浸食され、おびただしいゴミが流れ着いている。
南相馬市 自衛隊宿営地
帰路、自衛隊の宿営地があり、寄ってみた。空挺団第二普通化大隊(習志野)が宿営していた。
伊達市小国小学校付近
霊山パーキングから福島よりの小国小学校付近で、これまでで最大の線量を観測した。
磐梯の避難所
磐梯町のリゾートホテルが避難所として使用されていた。