定点観測の旅

 震災が起きたとき

東日本大震災が起きたとき、私は東京の会社で新規事業の企画を詰める仕事をしていた。すぐ気になったのは、システムエンジニアの社員のうしろの脇机に積まれた本の山だった。1m近く積まれた本を二人で必死に押さえたが、努力の甲斐もなく一部は崩れた。
その後も、携帯の緊急地震速報がしばしば神経を逆立てる音を発し、また電話がつながりにくくなった。
被害としては、そのほかキッチンで皿が数枚割れた程度だったが、電車の運休のニュースが入り、終業の時刻に近づくと社員の多くは連れだって徒歩で退社した。
結局私が雪のちらつく中、会社を後にしたのは8時を回っていたと思う。
バス停で長々と待つ間、福島原発のトラブルの報道が続いた。
これが、計画停電と、スーパーの品不足、節電で暑い夏に続く震災後の日々の始まりだった。

 福島へ支援物資を届ける

知り合いから「福島へ支援物資を届けるが、行かないか?」と誘いがあり、二つ返事で引き受けた。
2011年4月末から5月の初め、2人の仲間と2トントラックにのり、南相馬市に届け、帰路は会津若松市の避難所にも行って、ネット利用のためのPCを設置してきた。
南相馬の町は暗く、ようやく営業を再開したばかりのコンビニの明かりが眩しかった。
市役所の職員から頂いた「南相馬市 災害ボランティア」のキャップをかぶって店に入ると、「ご苦労様です」とあちこちから声をかけられた。

 定点観測の旅

その後、年に1〜2回、仙台から岩手県の被災地に旅をし、写真を撮ってきた。
被災から復興の歩みを記録するため、なるべく同じ場所で撮影するように心がけたが、土地のかさ上げ工事が始まってからは、半年後に前回の撮影地がわからなくなることも少なくなかった。
現地の人たちの話は、宿の人たちや通りがかりの人に声をかけて聞いたほか、渡波(わたのは)の「赤いチューリップ畑」の人とは、3年目に出会うことができ、避難所の話を詳しく聞くことができた。
震災直後から被災地にボランティアで出かけてきた友人と共に行ったときは、陸前高田の肉牛繁殖農家の方の話も聞くことができた。
本サイトは、これらの旅の記録である。

サイトの構成は、その時々の旅の経過を綴る「被災地の旅」と、個々の場所について時の経過と共に進む復興の歩みを記録した「復興の記録」の二系列にまとめた。
このように、各地を巡る横軸の「被災地の旅」と、各地の変化を時系列で示した縦軸の「復興の記録」を併せて、東日本大震災の被害と、それと戦って暮らしを再建するために奮闘している人たちの姿を浮き彫りにしたい。

「定点観測」とはいっても、旅の範囲は2回目以後、女川から歌津、気仙沼、陸前高田、大船渡と次第により北の地点に至っており、また、同じ地点に毎年訪れることも叶わなかったが、福島から宮城、岩手に至る広い地域の「定点観測」と理解してほしい。

■順次掲載 2016年3月までの時点で計7回に及ぶ旅を、これから順次掲載していく。

 海外への発信

震災後には世界各地からあたたかい支援の手が差し伸べられた。各国の救援隊の活躍も報じられた。各地を回ると、世界各国からの寄金で作られた施設があちこちで見られる。
私たちはこのことを決して忘れない。

しかし、震災後の被災地の姿は海外にはほとんど伝えられていないようだ。また、復興への歩みも海外には十分報じられていない。
私はこのことをたいへん残念に思う。
そこで、本サイトでは、今後、ボランティアの力を得て、可能な限り多くの言語で被災地の復興への歩みを伝えていくことを課題としたい。
それが、海外から寄せられた支援と友情に対して日本人がこたえる道だと考える。